青年部大会講演「明治維新の濫觴と射程」要約 講師:國學院大學講師 高森明勅 明年は明治元年から数えまして、百三十年ということで、明年にかけまして維新を懐古する様々な催物が出てこようと思いますが、 それに先駆けましてこういう会をもようされました催されましたこと大変慧眼でいらっしゃるということで、その点まず感服申し上げるわけで御座います。 この百三十年とう節目における明治維新への回想を、一過性の単なる上っ面な取り沙汰だけで終わらせてはならないという点です。 真剣深刻に、維新の歴史とそこを貫く精神から、多くのものを私共は学ぶ必要があると存じます。 それで本日三点ばかりお話したいと存じます。まず、「明治維新をどのように捉えるのか」ということを第一点。 それから第二点目といたしまして、明治維新の因って来る由来。明治維新はそもそも、どこに淵源するのかということ。 それから、三番目としまして、明治維新の射程ということで、明治維新の持つ歴史的意義がどこにまで及ぶのか、ということをお話し申し上げたいと存じます。 そもそも何故明治維新というものを改めてここで懐古し振り返らなければならないか、その理由は二つあろうかと存じます。 一つは現在の日本は大きな行き詰まりに直面しているということを日々痛感せざるを得ない現状であろうかと存じます。 こういう日本の深刻な行き詰まりを、どのように打開して行くのか。その手掛かりを求めなければならない。 そうした場合、諸外国に範を求めるということもございましょう。しかし、何より先ずもって私どもの、この日本の歴史。 国史の中から手掛かりを見出して行くというのが順序であろうと存じます。先程の大会実行委員長のお話にもございました、 我が国史上、最も目覚しい変革、あるいは国運飛躍の時代こそ明治維新であったろうと存じます。 そのことを考えますならば、現在の日本が直面しておる深刻な困難を突破し、乗り越えるてがかりを見出すためにどうしても 明治維新という大きな歴史上の事件に向き合わざるを得ないのだ、ということが第一点です。 それから第二点目ですが、実は明治維新が担った大きな重い課題というものが未解決のままに残されているということです。 今日は「維新懐古」ということでございますが、実は維新の課題は今も続いている。 これが、私どもが明治維新を振り返る際にどうしても大切な第二点の理由かと存じます。 先ず明治維新とは何なのだろうかということです。幕末の大きな動乱の時代に、アジアの大半が、 タイとわずかの例外はありましたけれども、植民地化に、我々が大きく学んだ支那においても殆ど西洋列強の半植民地状態。 そういう危機的状態になって、日本の独立を守らなければならない。日本の尊厳を守らなければいけないということが、第一の目的としてあったわけです。 この日本の独立主権を確保するために、国内の近代統一国家を作り上げていく。これが簡単に申し上げて明治維新であったわけであります。 次にこの明治維新の起点はいつか。それは嘉永六年。言うまでもなくペリーの黒船来航でございます。 この嘉永六年を起点としてわずか十五年で徳川幕府は崩壊をいたします。ペリー来航からわずか十五年。 嘉永六年から明治元年まで大変長い道程であったように見えますがわずか十五年です。 そしてその終結はどこかということにつきましては、一つは明治四年という年が考えられます。 ご承知の如く廃藩置県でございます。徳川幕藩体制を形作った各藩を一斉に潰した。これは通常あり得ないような大変革でございます。 しかし、私はもう少し長く見る必要があろうかと思います。こういうことを言う学者は一人もいないようでございますけれども、 私は明治維新を明治四十四年まで見なければならないと思っております。 明治四十四年に何があったか。実はこの年になってようやく、幕末以来の重い課題でありました不平等条約の改正の最後の関税自主権の回復がなされました。 これが明治四十四年でございます。これで初めて西洋列強と肩を並べる対等独立の主権国家となり得たのでございます。 従いまして廃藩置県も大きなことでございました。あるいは大日本帝国憲法も大きなことでございましたけれども、 明治維新の初心を振り返るならば、どうしても明治四十四年まで見ておかないと明治維新は決着がつかないわけです。 そして次にその濫觴、由来を振り返って見ますと、様々な歴史の事態に出会うわけでありますが、 明治維新で偉かったのは、キーワードで言えば「尊皇攘夷」という言葉が出てきます。 しかし、私が申し上げたいのは、明治維新の順序でいえば「攘夷」から「尊皇」でございます。 「攘夷」とは何か。「攘夷」とは、日本という独自の国として立ち上がるぞということでございます。 「攘夷」は他者を発見したのであります。ヨーロッパという他者を発見したのであります。これが攘夷です。 「決して彼等の膝の下に屈しないぞ」、「自分達の運命は自分で切り開くぞ」という自覚が「攘夷」でございます。 その当時の日本と欧米の軍事的力量の格差を考えてもらいたいのです。隔絶した違いがあるのです。 圧倒的な軍事的強者に対して攘夷を唱えたことのその意味を考えて頂きたい。 攘夷とは他者を発見してその他者に対して自分はその対等の主体性を守り、そしてそのために自分とは何か、 ということが問われたわけであります。日本とは何者なのかということが問われたのであります。 ここで日本は否応なく自己再発見しなければならない。そこで再発見された自己こそが、その回答が「尊皇」ということであったわけであります。 「尊皇」とは、ただ天皇陛下御一人を大切にして尊ぶとか、御皇室を一つの世帯・家族としての皇室を尊ぶということではございません。 日本の天皇に体現された日本の歴史、日本の主体性を尊重するということでございます。 ここを取り違えられますと大きな間違いでございまして、日本において日本の歴史を体現し、 日本の主体性・民族的独立を象徴し、体現できる存在は、徳川将軍ではなかったのであります。 あるいは、どんな立派な高僧でもない。どんなに位の高い神職でもない。 ただ天皇陛下あるのみというのが、あの当時の国民的合意であったわけでございます。これが「尊皇攘夷」の意味であります。 そして明治維新の「濫觴」ということで顧みますと、一つは天明の大飢饉でございます。 天明七年。これは明治元年から遡ること八十一年。殆ど百年。このときに大きな転機が訪れました。 当時の天皇は光格天皇という方でいらっしゃいました。 この時に初めて光格天皇の思し召しによりまして朝廷から幕府に政治的な国政に関わる申し入れを行っている。 これは徳川家康が幕府を開いて以来初めて、天皇が国内の政治についての意見をいう。 どういう意見かというと、国民のために幕府が持っている米供出しろということをおっしゃる。 そして、それに対して幕府はどうしたかというと、わずか千石でございましたけれども、千石の米を供出いたしました。 しかもそれをわざわざ朝廷に報告している。 ここにおいて国政はすべて朝廷から幕府に移っておったのが、朝廷の指示によって幕府が国政の政策変更を迫られるということが起こったのでした。 明治元年に先立つ八十一年前です。ここが大きな転機であります。 維新の濫觴ということで考える場合。光格天皇が民・百姓の飢饉に何とかこれを救ってやろうという御気持ち、 これに幕府も抗することができなかった。 これが明治維新に流れて行く大きな幕府と朝廷の関係が、ぐらっと揺らいで行くその初めであろうと思います。 といいますのは、その丁度翌年、天明八年に当時の老中松平定信が将軍に対して 「この天下は徳川将軍家のものではございません。これは京都の内裏の天皇陛下からお預かりしているものだから、 妄りに民百姓を虐げたり疎かにすようなことがあってはなりません。」ということを将軍に申し上げている。 幕府の政治は大政を委任されているものだ。幕府が自分で持っているのではない。大政委任ということが出てくるのです。 これがより深く自覚されてくるわけです。これがやがて最後の慶喜のころになって大政奉還という、 政治権力を一手に握っている人間が、自らその権力を手放すという考えがたい変革につながるわけでございます。 明治維新の濫觴ということで申しますと、江戸時代の初期の天皇でいらっしゃいます後水尾天皇という方がいらっしゃいます。 この方が『当時年中行事』という朝廷の儀式、朝廷の本来あるべき姿はどのような姿なのかということを認められた本がございます。 その序文に「朝廷は大変衰えてしまった。しかし、何とか本来の姿に戻していかなければならないのだ。 その道しるべとしてこの本を認めたのだ」ということを書いておられる。 しかも、その中で特に自分の先達と仰ぐ天皇の御名を二人書いておられる。 お一方は順徳天皇でございます。もうお一方は後醍醐天皇でございます。 武家権力の討伐を企て失敗したのが承久の変。そして一旦成功いたして、後に挫折しましたのが建武の中興。 この順徳院、後醍醐天皇の志をわざわざこの序文で顕彰しておられるのが、後水尾天皇でございます。 ここに私どもは明治維新の大きな精神的源流として、いかなる志士、先達でもございません、 天皇その方の志に、行きつくわけです。かように明治維新の源流を遡るという歴史の見方を提案したいわけでございます。 そして、射程ということでございますけど、二つだけ申し上げたい。 一つは国内のことで申し上げます。それは敗戦の翌年の昭和二一年一月一日の詔書です。 当時の新聞をご覧になりますと、「新日本建設の詔書」という名前で朝日新聞その他報道せられております。 しかし、後になってどういう訳か、私もある程度経緯は存じてはいますけれども、「人間宣言」と誤って伝えられるようになる詔がございます。 この「新日本建設の詔書」であります。 二十一年元旦の詔の冒頭にはこのようにございます。 「茲に新年を迎ふ。顧みれば明治天皇、明治の初め、国是として五箇条の御誓文を下し給へり。曰く、一、広く会議を興し、万機公論に決すべし。……」。 という具合に五箇条のご誓文が全部そのまま引用されておりまして、最後の五箇条目 「一つ知識を世界に求め大いに皇基を振起すべし」とすべて引用された上で「叡旨公明正大またなにおか加えん。朕は茲に誓いを新たにして国運を開かんと欲す」 と書かれておられるのでございます。 あの我が国未曾有の国難に際して、明治維新の壁頭の「五箇条の御誓文」の誓いをもう一度新たに立て直すのだ。 これが戦後日本の出発点であったわけでございます。これを私は明治維新の射程と言いたい。 明治維新は、明治が終わったといって済んだのか、いやそうではない。 これは詳しくその後を辿っていくことができますが、その一例として、この昭和二十一年元旦の詔を取り上げて、 戦後の出発点は明治維新の精神にもう一度立ち返ることにあった。 維新懐古こそ戦後日本の険しい道のりの出発点であったということを指摘させて頂きたい。 現在、祖国の情けない醜状に直面しつつある私共は、明治維新の歴史とそこに流れる精神に真摯に学ぶことで、 国史の復元力を再び取り戻すことが必ず出来ると信じます。 |