緑村吟詠会
緑村吟詠会は、詩吟のサークルです。東京都内数か所に教室があります。
私たちと楽しいひと時を過ごしませんか?
 
教室:鳳詠会(四谷三丁目)、杉並支部(荻窪)、青吟会(柏)、鳳詠会所属中斎塾フォーラム、武蔵野支部(武蔵野市・東村山市)、
龍谷大学龍吟会(京都)
 
  
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巻頭言

 御挨拶

緑村流緑村吟詠会会長

  細貝 鐡洲

 

新春の候、五月十日に緑村吟詠会の最も大切な行事である教育吟詠大会を催行出来ますのは誠に喜ばしい事であります。どうか会員皆様のご協力を賜り成功裡に終わります様、よろしくお願い申し上げます。

さて今年は太平洋戦争の敗戦から70年経ちました。私共もその時代を生きてきたものとして興味をそそられるテーマでありますし、マスコミ各社ではその時代の特集記事を組んで盛り上げております。

読売新聞社では全国世論調査を実施してその70年間に起きた大事件をランク付けて発表しています。

第一位、東日本大震災、二位、阪神淡路大震災、三位、東京電力福島第一原発事故、四位、地下鉄サリン事件、五位、東京オリンピックと続きます。


尚、この順位はその時の人口構成によって、当時の記憶がうすくなったり、また、その時には生れていなかったりでランク付けも変わると思われます。私の印象では、第一位として敗戦による国民生活の困窮、生きていく為の食料の調達にしてもらいたかった。それにしても四年前の東日本大震災には驚天動地の思いでした。テレビの画面に写る押しよせる津波の恐ろしさはこれが現実の出来事であろうかと驚くばかりでした。以下私事を織り込みながら敗戦直後の生活振りを振り返ってみます。

終戦の年昭和二十年、私は九才でした。故郷は群馬の太田市で中島飛行場の正面前に両親と十人兄弟一緒に生活していました。今から思うと大家族ですが、よその家庭も殆んど同じような構成でした。家の前の軍需工場は広大な敷地に大きな建築物が幾棟も連なって、戦闘機を作っている訳ですから米軍のB29の爆撃が頻繁に襲来して、その度に我が家族や近所の人々と防空壕に逃げ込んだものです。戦後の学校通学も大変でした。校舎は焼失したので一寸離れた公共ボロ建物へ小学生でも机や椅子を担いで運び、そこがしばらくの学校舎の代理でした。

教材もろくなものがなく、エンピツがようやく手に入ったとしてもなまくらナイフで削っても削っても芯がすぐ折れてしまうような物ばかりでした。教科書は戦中からの物を使って教育的に時代に合わない箇所は墨で塗りつぶしています。

総務省統計局の資料によると昭和二十三年には子供の人口割合が全人口の36.8%にのぼっていたとあります。去年の平成二十六年では12.8%まで少子化が進んだわけです。

戦時中の空襲などで校舎が焼失したため、教室が足りず当時は一クラス50人以上も珍しくなかった。中学校は新しく出来た制度で、特に校舎が不足して独立した校舎が持てた学校は15%にとどまっていたと記録されています。

一九四七年一月から主として米国からだと思われますが救援物資(食料ララ物資)が海外が入って来て学校給食の一助になった。パンミルクおかずの完全給食が実施されたのは五十年七月だった。同じ五十年に朝鮮戦争が起こり、日本はその特需によって潤ったのではないでしょうか。

その後の一九六四年、東京オリンピックによって日本は大変元気になりました。宰相池田勇人の所得倍増計画によって国民生活は少し余裕が生まれた模様です。その間一貫して日米同盟の基軸である日本の平和と安全に役立ち、防衛費が少なくすんで、その分、経済発展に繋がったと思われます。ちなみに戦後の歴代首相の人気第一位は田中角栄、二位、小泉純一郎、三位、吉田茂、四位、佐藤栄作、五位、安部晋三となっております。(読売新聞、全国世論調査)

大分大昔のことで記憶の不明な点がありますがご容赦くださいます様。

~緑村吟詠会は、漢詩吟詠のサークルです。私たちと楽しいひと時を過ごしませんか?~

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