緑村吟詠会
緑村吟詠会は、詩吟のサークルです。東京都内数か所に教室があります。
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56号(平成21年)巻頭言
 
  今こそ教育吟詠を 

副会長   藤田 佳男 

昨年末、会長坂本坦道先生が病にたおれられ、現在リハビリ中の身であります。少しずつではありますが、快方に向かわれつつあるとのことです。一日も早くお元気になられることをお祈りする次第であります。つきましては私が代わって巻頭言を申し述べたく存じます。

さて、平成二十年の漢字は「変」でありました。「変な」ではなく「変化」の意味だそうであります。日本は福田内閣が麻生内閣に変わり、アメリカではオバマ氏が「ウイキャン」「チェンジ(変革)」を掲げて初の黒人大統領になりました。彼の大統領就任式は全世界に放映され、世界中の関心を引いたことはまだ記憶に新たなことと存じます。白人第一主義が終わりを告げて人種の融合が為され、世界が変化し始めたのです。世界平和へ一歩前進した感があります。

では、その支持はどこから来るのでありましょうか。それは「信」からと思うのです。『論語』に国として「食・兵・信」の中でどうしても切り捨てなければならないものがあるとしたら何かという論争があります。順番でいうと最初に「兵」で次にこのように書かれています。「食を去らん。古より皆死有り。民信無くんば立たず」と。人民への信用がなければ国は成り立たないのであります。今回の大統領選はこの「信」が問われた選挙といえるのではないでしょうか。

ところが、儒教が根底にあった日本はどうなってしまったのでしょうか。麻生首相はころころと「変わる」発言をして思想と教養、度量の無さを露呈し、結果的には信用を失い、その支持率は二割を切りました。祖父の故吉田茂首相はさぞかし草葉の陰でお嘆きのことでありましょう。今からでも遅くは有りません。マンガを捨てて『論語』なりを読み、為政者たるべき学問を為されてはいかがでしょうか。『論語』が難しいのであれば「吟詠」をお勧めいたします。また首相に限らず、汚染米やウナギ産地偽装、果ては国の信用まで失った年金問題。これらの担当者はいったいどうしたのでしょうか。「ばれなければいい」「ごまかせばいい」「自分さえよければ他はどうでもいい」「だまされるほうが悪いんだ」という自分勝手な自己中心的な考えがはびこっているのをどうすればいいのでしょうか。「仁・義・礼・智・信」という儒教的な徳目は顧みられることなく、捨て去られてしまったのです。戦後六十余年、平和教育に名を借りた日本弱体化教育はここに実を結んだわけであります。合成映像、口パク少女、毒入り餃子がまかり通るどこかの国のようになるのはそう遠い話ではないかもしれません。

そうならない為にはわれわれ一人ひとりがしっかり生きることではないかと思うのです。江戸時代までは儒教が中心であり、その基本である『論語』や『大学』といった四書五経が読まれておりました。そのなかの『大学』という本のエッセンスは「修身・斉家・治国・平天下」といいます。「身を治め、家をととのえ、国を治めることにより、最終的には平和な世界になる」という考えです。今や政府の教育はあてにはなりません。ですから一人ひとりが自分で修養していくしかないのかもしれません。先ほどの話題に戻りますと『論語』にはこのようにあります。「不義にして富み且つ尊きは、我において浮雲のごとし」と。悪いことをして金持ちになり、出世したというのは、私ははかないものだと思うという意味です。真っ当な努力をした後に得るものであるからこそ価値があるのです。その通りですね。このように考えさせられるものを今はほとんど教えていませんから、道徳的規範は自分で何かを探し出すより無いのです。

このような『大学』や『論語』を江戸時代までは寺子屋で学んだのです。ですから開港以来の混乱を乗り切ることができ、西欧の植民地にならなかったのではないでしょうか。さらにトヨタ・松下といった企業が世界的になったのも、根底には儒教的な考えがあったからではないでしょうか。経済大国日本は儒教によって出来上がったといっても過言ではないでしょう。

この儒教的な考えは、まず文言を覚えることにより身についたのです。藩校や寺子屋では音読・素読・暗記が中心であったと思われます。まず意味を教えず声を出して読ませます。声を出すことにより、より暗記力が増します。これは人間の五感のうち三感の器官(目・耳・口)を使うという、非常に効率的な勉強方法です。これに音楽的要素が入ればますます効果的に覚えることができるのです。藩校などから吟詠が発生したというのも自然な成り行きであったと思われます。こうして覚えていたものは、もし忘れたとしても何かの刺激により甦ってくるものです。最初から脳の引き出しが空っぽであれば、いくら探しても何も出てきはしません。黙読するより何度も音読して拳拳服膺することが一番の勉強なのです。

ところで教本に西郷南洲の「偶成」が載っております。私は恐らく吟詠をしていなければ、この漢詩に出会うことは無かったでしょう。ここに掲げます。

偶成   西郷 南洲

一貫唯唯諾 従来鉄石肝  一貫す唯々の諾 従来鉄石の肝

貧居生傑士 勲業顕多難  貧居傑士を生じ 勲業多難に顕は

             る

耐雪梅花麗 経霜楓葉丹  雪に耐へて梅花麗しく 霜を経て楓葉丹し

如能識天意 豈敢自謀安  如し能く天意識らば 豈に敢へて自ら安きを謀らんや

 「一度よしと承諾したことはどこまでもつらぬく」「苦労に耐えてこそ立派な功績がのこる」「困難から背を向けるのではなく、最後まで投げ出さないものだ」といろいろなことを、吟詠をしながら学びました。「雪に耐えて梅花麗しく」などは吟じるごとに感動を新たにし、納得し、励まされたものです。もし忘れたとしても、私の脳の引き出しには残り、何かの時にふと浮かんでくるでしょう。吟詠をすることによって実に血や肉になるとはこういうことではないかと思うのです。意識はしていなくとも、自然とそれなりの思考や行動につながるのではないでしょうか。吟詠をされている人は普通でも、吟詠に触れていない人にはわからないということはたくさんあるものです。

 最後にもう一度最初に戻ってみましょう。安倍首相も福田首相もその任を全うすることができず、自らその職を辞しました。「功成り名遂げて身退く」といいますが、この両首相途中で放り出すとは何とも情けなく思います。麻生首相にいたっては「一貫」した姿勢に欠けるのではないでしょうか。もしこの南洲の漢詩に出会っていれば、また吟詠で吟じていればこのような惨めな思いはなさらなかったのではないかと思います。「知育」中心の戦後教育の弊害が出てしまったのではないでしょうか。吟詠することは何ら普通のことと思っているでしょうが、私たちは吟詠をすることにより、知らないうちに自然と精神的側面でも、情操面でも自分を高めているということに気づきましょう。それが「教育吟詠」ということではないのでしょうか。「道は近きに在り。これを遠きに求む」とありますが、私たち目の前にあるではありませんか。先哲が残した漢詩や和歌に出会い、吟じそして自分のものにしていうということが、今改めて重要なことだと実感する次第であります。そして吟の上手い下手ではなく、いかにその漢詩や和歌と向きあったかを感じるべきであります。この大会に臨み、皆様は何度も何度も課題の漢詩を吟じたこと思います。吟じながらも「ここがいい」「そうなんだ」と思うところがきっとあると思います。または「何かは知らないが何となくいいんだ」という方もいらっしゃるでしょう。そんな気持ちが大切なのではないでしょうか。

この大会が皆様の課題に対する思いが表現できた有意義な会になることを願うものです。


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